大阪国際文化協会

クラシックの日

今回はリヒャルト・ワーグナーの代表的な作品「ニーベルングの指環」をご紹介させていただきました。

ワーグナーは1813年、ドイツの音楽好きな下級官吏の元に生まれました。
ワーグナー一家は彼が生まれる以前から音楽に親しみのある家族で、よく家で演奏会が開かれていたことから彼自身も音楽と触れ合う機会が多かったようです。また一家で社会学者マックス・ヴェーバーと親交があり、ワーグナーに物心ついたころから一生尊敬し続けることとなった数少ない人物となりました。
もう一人彼の思想を大きく左右する人物がいました。ベートーヴェンです。15歳の頃、ベートーヴェンの音楽と出会い強烈な憧れを抱きます。そのきっかけから、音楽好きな親の意思ではなく自らの意思で音楽家を志します。ただ、次第にドイツオペラの巨匠であるカール・マリア・フォン・ウェーバーに憧れが移り変わり、劇作にも興味を持ち始めました。これがのちに19世紀のヨーロッパに影響を及ぼすことになる、ワーグナー歌劇作品の大きな原動力となるのです。

↑ワーグナーの生家

1831年、彼が18歳の時にライプツィヒ大学に入学します。そこでは音楽・哲学などリベラルアーツを始めとする多種多様な学問を学びました。1832年以降、今度は多くの歌劇曲を作りますが最初は生計を立てられず貧困に苦しむ生活を送るようになります。彼の最初の歌劇「婚礼」を作曲したのが19歳の時であり、若くから音楽・脚本・思想と言った表現活動に才覚を示していました。しかしそんな時期、彼は大学をさしたる理由もなく中退してしまいます。彼の生涯を通して飽きやすい性格であることが伺えるエピソードは他にもいくつかあります。例えば彼が20歳の頃、才能の片鱗を認められドイツのヴュルツブルグの市立歌劇場の指揮者に就任しますがすぐに飽きてやめてしまいます。彼の20代は貧困にあえぐ生活が続きますが、そのわけは収入が極端に少ないというよりも浪費癖が離れなかったことにあるようです。

1849年ワーグナーはドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加しました。しかし結果的にこの運動は失敗。全国で指名手配されたためフランツ・リストの助けによりスイスのチューリッヒに逃れました。
ここから8年間の亡命生活が始まります。難を逃れてスイスにやってきたワーグナーですが、この亡命生活は彼にとって運命だったのではないかと思えるほど芸術を生み出すことに専念できて現在にも語り継がれる作品が生まれます。初めの3年間は思想家として数々の論文を発表すると同時に、音楽家として1850年にヴァイマルでローエングリンの初演を行いました。2年後の1852年、スイスにてこの後の人生を左右することになるヴェーゼンドンク夫妻と知り合います。1857年、以前より音楽家ワーグナーの支持者であるヴェーゼンドンク夫妻は「彼が作曲に打ち込めるように」と自宅の隣の屋敷を提供します。彼らの好意により居心地の良い住処を手にいれたワーグナーですが、彼を神のように信奉していた美しい夫人マチルデ・ヴェーゼンドンクと恋に落ちてしまいます。人目をはばかるこの恋愛は彼の芸術的感性に大きな影響を与え後に「トリスタンとイゾルデ」を書くきっかけになりました。

1864年ついに追放令が解除されたことにより、ワーグナーは晴れてドイツ帰国に成功しました。彼の帰国に関してドイツ国内では賛否両論ありましたが、亡命期にたくさんの芸術作品を生み出していることから音楽界では彼の帰国は喜ばれました。しかしその翌年、政治的なスキャンダルと愛人コジマとのスキャンダルのダブルパンチによりミュンヘンに居られなくなり、ルンツェン郊外のトリープシェンに移住します。その後ミュンヘンでマイスタージンガー初演を果たすなど、音楽活動において順調に活躍を続けました。

その後1883年2月13日、心臓発作で亡くなり、ワーグナーの69年はここで幕を閉じます。ロマン派音楽終焉のきっかけを作り出し、クラシック音楽の方向性を大きく変えた人物として知られる、音楽界の偉人となったのでした。

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