5月クラシックの日
こんにちは。みなさまいかがお過ごしですか?宣言中、お子さんを公園ぐらいにしか連れて行ってあげることが出来ないのに、梅雨に入ってしまってどこにも行けない…辛い日々が続きますね。こんな時は好きな音楽をかけて、気分を盛り上げていきましょう!という事で、5月のクラシックの日、ブルックナー特集です☆
「ヨーゼフ・アントン・ブルックナー」は後期ロマン派の時代に活躍したオーストリアの作曲家です。 交響曲の大御所としてドイツ圏を中心に絶大な人気を誇り、日本においてもファンが多いメジャーな作曲家といえます。今回は、そんなブルックナーがどんな人物であったのかご紹介しようと思います!
1824年9月4日にオーストリアのアンスフェルデンという村で生まれたブルックナーは、6幼少期から類まれな才能の片鱗を見せ、10歳になる頃には教会のオルガニストとして活躍するほどの実力を身に着けます。
その後、ヘルシングという村のオルガニスト「ヨハン・バプティスト・ヴァイス」に師事し、本格的な音楽教育を受けました。ただ、この頃のブルックナーは郊外の村の演奏家に過ぎず、ウィーンやパリといった大都市で活躍する音楽家とは程遠い存在であったとされています。
それを象徴とするかのように、ブルックナーは16歳からは教員養成所に通い、小学校の補助教員として若き頃を過ごしました。 踊りの伴奏としてヴァイオリンを演奏したり、オルガンを演奏したりといったセミプロとしての活動は盛んに行ってはいましたが、この時点では大作曲家になる片鱗はまだ見せず、なんと40歳になる頃まで地方にて過ごしました。 (※クラシック作曲家としては遅咲き中の遅咲きということになります。)しかし、ブルックナーの運命はワーグナーの音楽によって一変します。セミプロとして対位法や和声法の勉強を続けていたブルックナーでしたが、1863年ごろから熱狂的なワグネリアンと化し、ワーグナーの楽曲の研究をするようになりました。その5年後の1868年にはウィーン国立音楽院の教授に就任。郊外での生活に別れを告げ、真の作曲家になるべくウィーンへと旅立ちました。
ウィーンにて教授職についたブルックナーは『ヘ短調交響曲』『交響曲第0番』『交響曲第1番ハ短調』『交響曲第2番ハ短調』といった交響曲を次々と発表。1875年からはウィーン大学にて音楽理論の講義を受け持ち、名実ともに一流作曲家の仲間入りを果たします。その後も『交響曲第6番イ長調』『交響曲第7番ホ長調』『テ・デウム』『弦楽五重奏曲ヘ長調』交響曲第8番ハ短調を作曲。72歳で生涯を閉じるまで、ウィーンにて交響曲の作曲に全身全霊を尽くしました。
交響曲の大御所として、10曲にも及ぶ交響曲を残したブルックナー。曲が長いため、決して万人受けする作曲家ではありませんが、コアなファンからの人気は高く、コンサートで演奏される機会も少なくありません。お家時間にぜひ一度、お聴きになってみてはいかがでしょうか。