大阪国際文化協会

7月クラシックの日

クラシックの日、今回はヨハネス・ブラームスの作品をご紹介させていただきました。

ヨハネス・ブラームス(1833−1897)

ブラームスは1833年にハンブルクで生まれました。父親はコントラバス奏者で、幼少から父親から音楽を学んでいました。7才からピアノを始め、彼の才能は花を開いていきます。オットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルにピアノを学び、高度な音楽教育を受けていきますが、ブラームスは貧しかったため、13才のうちからレストランなどでピアノを演奏してお金を稼ぎなんとか家計を支えていました。

ブラームスの生家

作曲に専念するようになったブラームスは様々な音楽家たちと親交を持つようになります。20代のはじめにフランツ・リストと出会ったもののあまりうまくはいきませんでしたが、シューマンとの出会いは、ブラームスにとってかなり大きなものとなります。シューマンはブラームスの音楽と演奏に感銘を受け、ブラームスの作品の普及に大きな影響を及ぼします。また、シューマンの妻クララとも生涯にわたって親しく交流を続けることになりました。

ブラームスのピアノ演奏の実力は悪くはなかったものの、性格的に地味なこともあって、演奏家には向いていなかったようです。その代わり、作曲家を生業として切磋琢磨しているうちに、20歳の頃、彼はシューマンの元へ出向き書き溜めた曲を次々と披露。43歳のシューマンはこの若い作曲家の才能にすぐにほれ込み、ブラームスを世に送り出す記事を書いたり、出版社への売り込みのサポートもしていきます。無名で新人のブラームスが活躍できたのも、このシューマンのサポートがなかったら決してできなかったことですね。

若き日のブラームス

このようにシューマンの肝いりでブラームスの名前が世に知られるようになったのですが、ブラームスがシューマン家に溶け込んだ翌年の1854年、シューマンはライン川に投身自殺を図ります。シューマンは幻覚や幻聴に悩まされていて、頭のなかで「イ音」がなり続けていたそうです。 

幸い命は取り留めましたが、シューマンは精神病院に収容されることになり、妻のクララが一家を支えることになります。クララはピアニストとしては一流で、演奏家として活躍できましたが、子供も多く、ブラームスが家計の管理などを助けることになり、引き続き親密にシューマン家と交際することになります。クララとの間に交わされた手紙も数多く残されており、個人的な感情はもとより、音楽的な意見の交換の様が伺えます。

二人の関係については色々な見方がされていますが、クララが14歳年上であったことと、少なくともシューマン存命中は恩師の夫人であり、思いを抱いていたとしてもかなわぬものであったでしょうし、シューマンが亡くなって後は、むしろ現実的に物事を考えるようになって、友人に留まったのではないかといわれています。現に二人の交流、音楽面での共同作業は最晩年まで続いています。

ブラームスは短い期間に交響曲を4曲書きました。1876年に交響曲第一番を、1877年には第二番を、そして1885年までに第三番、第四番の両曲を作曲しました。この交響曲の作曲に精力を持って挑んていた時期には、イタリアを8度も訪問し、集中できる場所を探しながら作曲をして行きました。1889年には「ハンガリー舞曲第一番」を蓄音機に録音しましたが、この録音は世界初のレコーディングだとされています。

しかしこの翌年、1890年に作曲意欲の衰えたブラームスはいったん引退を考え、翌年には遺書を作成。厳格な自己批判から、過去の気に入らない作品や未完作品の草稿を多数破棄したそうです(なんてもったいない!)。

結局は作曲活動を再開することとなります。1891年にクラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に触発されて創作意欲を取り戻したのでした。ブラームスは晩年、室内楽曲を多く作曲し、『7つの幻想曲』『4つの小品』『4つの厳粛な歌』などの名曲を生み出します。しかしながら1896年にクララが死去すると、翌年それを追いかけるように、ブラームスも急死してしまうのでした。

友人ヨハン・シュトラウス2世と

長々と書き連ねてしまいましたが、実際に曲を耳で聴いてもらうのが1番!「ハンガリー舞曲」ぜひ一度聴いてみて下さいね♪

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