あっぷる de アート「月の光」
夜風に獲物の匂いをクンクン?!
いえいえ、月の出を待って見上げる人のような趣が?!
ずる賢かったり、人を化かしたりと悪者役が多い狐も春章が描くと上品。
しっとりとした空気感まで伝わってきます。
作品名:月下狐
製作年:1899年
サイズ:135.0×65.5cm
所蔵 :水野美術館
作者 :菱田春草 1874~1911
菱田春草は16歳で東京美術学校の二期生として入学。
1期生には後に日本画壇の巨匠となる横山大観がいました。
熱い大観と6つ歳下のクールな春草。
タイプの違う二人でしたが活動を共にすることに。
校長の座を岡倉天心が辞すと、大観と春草も後に続き、日本美術院の創設に尽力。
(アート界にも派閥争いが・・・)
「墨に頼らず、光や空気を表現できないか」と天心に言われた大観と春章。
輪郭線無しで日本画を描けるかを追求。
やがて着色した上から空刷毛でなぞり、ぼかす『没線描法』を生み出します。
師のお題から自然な空間・奥行きが現われたワケですが・・・
技術以上に風情を感じさせ、日本の湿度まで表現出来たのが春章の凄さかと!!
(古典の授業で風情・趣って散々出てきましたよね〜)
日本美の一つを表せてピッタリ!かと思いきや、当時は『朦朧体』と揶揄されました。
(書と同じ一発勝負の墨の線を無くす・・・拒絶反応を起こされちゃったのね)
日本画の精神への冒涜と捉える向きも?!
伝統的な日本画を学んだ上で新たな表現を探ったわけですが・・・(いつだって革新者は辛いのね)
「光や空気を表現」は印象派とも重なります。(もやもや画面を叩かれた所も一緒〜)
その後、春草は大観達と共に海外を巡ります。
アメリカへの出港は日露戦争と重なった上に、滞在費等は自分達で稼ぐしかないサバイバルなもの。
(何せ売れてなかったし〜外遊なんて優雅さはゼロ!)
幸いにも国内で相手にされなかった『朦朧体』は海外では高評価。
展覧会(販売も行う)をアメリカ、イギリス、フランスで計7回も開き大成功。
(明治の1円=2万で換算→計6,800万円也〜天晴れ!というか、やっと奥さんにも送金)
春草はこの手応えと共に、海外作品を前に色彩の重要性に確信を得ます。
作品名:松に月
製作年:1906年
サイズ:79.0×50.0cm
所蔵 :個人蔵
作者 :菱田春草 1874~1911
知性派春草の探求は続き、洋画の画材を日本画に使ってみたりなんて実験も!
(もやもや画面のカバーを模索♪)
国内では売れないまま、活動拠点を茨城県の五浦に移しますが『都落ち』と言われたそう。
大観と一緒に魚を釣ったりする極貧の中でも描き続けますが、
やがて春草は、慢性腎不全から網膜症まで患い視力低下に見舞われました。
東京に戻り療養後は装飾と写実を探求。
視力を失いつつ描いた画家といえば晩年のモネが浮かびますが、
春草は病が再発し37歳目前という若さで亡くなりました。
横山大観は後々までも「春草こそ本当の天才だ」と言っていたそう。
岡倉天心は『不熟』との言葉で追悼。(如何に早過ぎる死を惜しんだか)
大観が最後まで手放さなかった春草の美人画もまた月に因みます。
(春草がようやく世間に認められた落ち葉シリーズでない所が感慨深い)
隣で誰よりも実力を感じつつ、二人で探求していた頃の思い出の一つだったのかも・・・
作品名:秋の夜美人
製作年:1902年頃
サイズ:65.0×55.0cm
所蔵 :横山大観記念館
作者 :菱田春草 1874~1911
参考文献
巨匠の日本画4「菱田春草 こころの秋」河北倫明・平山郁夫(監)
別冊太陽「菱田春草」鶴見香織(著)