大阪国際文化協会

クラシックの日

本年最初のクラシックの日。今回はシューマンの交響曲第1番「春」、ピアノ協奏曲イ短調をご紹介させていただきました。

ロベルト・シューマンは、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で、出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。
ロベルト16才の年にその父親が亡くなり、安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが、音楽家への夢を捨て切れず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りします。作品番号1の「アベック変奏曲」が出版されたのは、同年のことです。 翌31年からはハインリヒ・ドルンのもとで正式に作曲を学び始め、手を痛めて(指関節に生じた腫瘍が原因とされています)ピアニストへの夢を断念せざるを得なかったこともあり、作曲家、そして音楽評論家への道を選びます。

その後、ピアノの師ヴィークの娘で、名ピアニストだったクララ・ヴィークと恋に落ち、婚約しますが、ヴィークはこれに激しく怒り、若い2人はつらい日々を送ったとされています。「幻想小曲集」、「幻想曲」、「クライスレリアーナ」、「子供の情景」などの傑作は、そのような困難の中で作曲されました。 1839年、シューマンとクララはついに裁判に訴え、翌40年に結婚が認められました。この結婚をきっかけに、それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンは歌曲の作曲に熱中、1840年からのわずか1年ほどの間に、「詩人の恋」、「リーダークライス」、「女の愛と生涯」など、幼少期からの文学的素養とピアノの天分とが結びついた傑作が次々と作曲され、この1年は特に「歌の年」と呼ばれています。

1841年からは一転してシンフォニーの創作に集中、「交響曲の年」と呼ばれるこの年には、実際にはシューマン初めてのシンフォニーである第4交響曲の初稿、交響曲第1番「春」を作曲。3月31日に親友メンデルスゾーンの指揮で初演され、大成功をおさめたとされています。
1844年、ドレスデンに移住、傑作「ピアノ協奏曲」が作曲されますが、この頃から徐々に、青年期に精神的なバランスの不安定が顕れはじめ、その危機を逃れる目的もあってバッハの研究に没頭、オルガン作品にその成果を残しています。

作曲家兼指揮者として活躍したシューマンですが、評論家としての功績も忘れるべきではないでしょう。1834年に創刊された「新音楽雑誌」の編集を担当、1836年には主筆となり、1844年に至るまで務めます。これに先立つ1831年、同い年のショパンの才能をいち早く見出した「作品2」と題された評論の中の「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」という言葉はあまりにも有名。その他にも、メンデルスゾーンを擁護し、バッハ全集の出版を呼びかけ、若き日のブラームスを発掘したのも、ベルリオーズをドイツに紹介したのもシューマンでした。特に、シューベルトの埋もれていた「天国的に長い」交響曲「グレート」を発見したことは、音楽史上の大成果と言えるでしょう。

胎教にもお子さまの育脳にも、自分の癒しにもなるクラシック音楽。気軽に聴きにいらしてくださいね♪

Scroll to Top